Masuk懇親会が終わった。
終わった、というより、仁が澪を抱きかかえて出口に向かったのを見て、グロウセオリーで澪の上司をしている人物が「じゃ、じゃあ、今日の懇親会はこの辺でお開きに……」と締めてくれたのだ。
腕の中で朦朧としている澪を見下ろして、仁は小さく息を吐いた。まさか、こんな形で再会した幼なじみを抱きかかえて夜の街を歩くことになるとは。
時計を見ると、まだ電車が動いている時間だが、このまま電車に乗せて帰らせるわけにはいかない。
ちょうど空車のタクシーが通りかかった。右手を挙げると、すうっと吸い込まれるように目の前に停車した。仁は澪を奥に座らせ、自分は手前に座った。
「お客さん、どちらまで?」
中年のタクシードライバーが、ににやにやしながら、酔い潰れた澪をタクシーに乗せる仁を見てきた。
「澪、住所言えるか?」
「ん……」
だめだ。澪はすっかり酔っ払って、自分の家の住所すら言えない。住所がわからなければ、家まで送り届けることはできない。
「仕方ない……」
仁はタクシードライバーに自分の家の住所を告げた。
タクシーが発車する。窓の外の街灯が徐々に速く流れ星のように過ぎ去っていく。
交差点にさしかかり左折すると、澪の体がぐらりとこちらに傾いた。
「おっと」
やさしく受け止めて肩を貸すと、澪はすうすうと規則正しい寝息を立てていた。仁は澪の髪に指を差し込み、撫でる。
「んん……」
一瞬みじろぎしたが、再び寝息を立てた。よっぽど疲れているのか、寝顔を見つめると、目の下にひどいくまができていた。目の下を親指で撫でてやると、気持ちよさそうに顔を擦り付けてきた。
十七年。会えなかった年月を思うと、胸の奥が締めつけられる。ずっと、この顔をもう一度見たかった。
「久しぶりだな、澪」
耳元で囁くが、澪はまだ眠ったままだった。
仁の住むタワーマンション入り口のロータリーにタクシーが横付けした。支払いを済ませ、澪を横抱きにしてエントランスに入る。澪はまだすうすうと寝息を立てている。
「本当に無防備だな……」
澪の寝顔を見て、仁はため息をついた。
エレベーターに乗り込み、最上階へ上がった。
部屋に入り、そっと澪をリビングのソファに寝かせる。一瞬、澪が眉間にしわを寄せた。澪のそばに座りじっと顔を見つめる。
十七年。
別れた当時、澪はまだ小さな女の子で、今よりずっと背が低かった。細くて小柄なのに、いつも腰に手を当てて仁の前に立ちふさがり、仁をいじめる男の子たちに向かってこう叫んでいた。「この人は私が守るんだから、触らないで!」
今、澪は仁のソファの上に横たわっている。まるで壊れそうな子猫のように。
仁はゆっくりとしゃがみ込み、膝が床に触れ、視線の高さを澪に合わせる。
灯りの下で、澪の目の下のクマも涙の跡も隠しようがない。仁は手を伸ばし、指の甲でそっと澪の頬をなぞる——彼女は一体どれだけ自分を追い詰めてきたのか。
指先は頬骨に沿ってゆっくりと滑り、顎のラインで止まり、そっと澪の顔を支えるように持ち上げた。
こんなにも無防備でかわいい姿を見せられて、耐えられるはずなどない。
親指でスルッと下唇を撫でる。澪がそれにつられて、唇を薄く開けた。
視線は澪の柔らかくふっくらとした唇に落ち、そのまま離すことができなくなった。
仁はごくりと唾を飲み込んだ。喉仏が上下する。
仁はゆっくりと澪の顔に近づいた。お互いの息がかかる距離。仁は首を傾け、唇を重ねようとしたそのとき、スマホが震える音がした。
――せっかくいいところだったのに……。
内心で悪態をつきながら自分のスマホを確認したが、震えているのは自分のスマホではなかった。
なんだ、澪のスマホか。
けれど、スマホは鳴り止むことなく、しつこくブーブーと震え続けている。
「澪、ごめん。バッグの中見るぞ」
バッグを開くと、ブーブーとスマホの震える音が大きくなった。スマホを手に取ると、「黒川直哉」と表示されていた。
仁は目を細め、その表示を見つめた。そして、着信ボタンをタップして澪のスマホを耳に当てた。
するとすぐに直哉の怒鳴り声が鼓膜を揺らした。
『おい、澪! お前いったいどういうつもりだ!』
なにやら直哉は怒っているらしい。仁はそのままなにも言わずに聞き続けた。
『花音が送ったメッセージにまだ返事してないらしいな? はやく返事してやれ。花音が困ってるだろうが!』
仁は眉をひそめた。
『なんで花音に返事してやらないんだ! ああ、そうか。お前は拗ねてるのか。ふふ……。そりゃそうだよなぁ。俺と結婚式を挙げる会場に、友達として行かなきゃいけないんだもんなぁ』
直哉は電話口で憐れむような笑い声をあげた。
『でもな、そんなところがお前はかわいくないんだよ。強気で誰にも頼ることもしないで。だから誰からも好かれないんだ。おい、聞いてるのか!』
直哉が一方的に澪を罵る言葉を聞いていた仁は、小さく息を吐いた。
「話は終わったか」
澪は提案書をクリアファイルに入れ、バッグにしまった。「澪、それ、いつ上に出すんだ?」 出勤の準備をしている澪に、仁が声をかけた。澪はバッグを肩にかけながら答えた。「できるだけ早いほうがいいと思ってる。だから、今日、上司に相談してみるつもり」「そうか。がんばれ。でも、無理はするなよ」 仁は、澪のほおに右手を添えた。澪は、その手にそっとほおをすり寄せた。 仁の大きな手に包まれるだけで、なぜだか安心する。「いってらっしゃい」 仁が澪の額に、ちゅっ、とキスを落とした。澪は目を細めて、仁を見上げた。「いってきます」 仁にほほえみかけて、玄関を出た。背後でドアが閉まる音がする。 その音が耳に届くと、澪は背筋をぴんと伸ばした。顎を引き、まっすぐ前を向いて、エレベーターホールへ向かった。 会社に着くと、澪は提案書をバッグから出して、デスクに伏せて置いた。 ――大丈夫。あの人なら、きっとわかってくれる。 澪をコラボの担当に抜擢してくれたのは、今の上司だった。上司は、澪の仕事をいつもいちばん近くで評価してくれている。 昨夜、提案書の最後のページに書いた上司の名前を見て、胸がひやりとしたのは、きっと気のせいだ。 始業後、上司のほうに目を向けると、忙しそうにしている様子はなかった。こういうことは、早いほうがいい。澪は提案書を手に、上司のデスクへ向かった。「例の件で、ご相談があるのですが」「わかりました。では、会議室へ行きましょうか」 上司は立ちあがると、小さな会議室へ向かった。澪もそのあとについていった。 会議室に入ると、上司に椅子を勧められた。澪は「失礼します」と小さく言って、腰を下ろした。ぎしっと、椅子がきしむ。天井の蛍光灯が、パチンと音を立てた。「それで? 結論は出たの?」「はい。こちらを、ご確認いただけますか」 澪はクリアファイルから提案書を取りだして、上司の前に差しだした。
ドアをノックしたが、しばらく返事がなかった。けれど、なかに仁がいることはわかっている。 澪はもう一度ノックしようと、拳を握りしめた。その手を上げた瞬間、ドアがそっと開いた。「……仁」「おかえり、澪」 仁の顔は、ひどくやつれていた。目の下には、くまがくっきりと浮かんでいる。ラボで寝泊まりしていても、きちんと眠れてはいなかったのだろう。「ただいま。……おかえり、仁」 たった数日離れていただけなのに、妙に気まずい。目を合わせられずにいると、仁が口を開いた。「リビングで話そうか」 澪は、小さくうなずいた。 ソファに並んで座っても、しばらくはどちらも口を開かなかった。 ――このままじゃ、だめだ。 澪は、仁のほうへ体ごと向きなおった。「この前は、ごめん。言いすぎた」 澪は、仁に頭を下げた。仁がせっかく澪のためを思って提案してくれたことを、澪はすべてはねつけてしまったのだ。仁が怒っても当然だった。 仁は澪の肩に手を添えて、そっと頭を上げさせた。目が合うと、仁は口もとをゆるめた。「いや、俺のほうこそ、ごめん。澪がこれまで必死にがんばってきたことを、全部なかったことにするような言い方になってた」 そう言って、仁は眉を下げた。 ――やっぱり、思ったことは言葉にしないと伝わらないんだ。 仁の顔を見ていると、ほっとして体から力が抜けた。気づかないうちに、ずっと肩がこわばっていたらしい。 力が抜けると、澪はようやくここへ来た目的を思い出した。仁に謝りたかっただけではない。 澪はバッグからクリアファイルを取りだした。なかには、A4の書類が三枚入っている。 澪は書類を抜きだすと、ローテーブルの上に置いた。 それを見て、仁は目を見開いた。「……提案書?」「うん。あたしなりにいろいろ調べて、考えてみたの。読んでみて」
あの日から、仁は家に帰ってこなくなった。 真壁のメールにあったとおり、ラボに簡易ベッドを入れ、そこで寝泊まりしているのだろう。 ひとりきりの部屋で数日を過ごすうちに、澪の頭も少しずつ冷えてきた。 仁は、澪を守ろうとして、仁なりに考えてくれたのだ。そのことは、わかっている。 けれど、仁に用意してもらった道を、ただ歩くのは嫌だった。自分の力で、なんとかしたい。「じゃあ、澪ちゃんは三つめを見つけないとね」 奈央の言葉が、脳裏によみがえった。 そうだ。与えられた道ではなく、自分で道を切りひらきたいのなら、三つめを見つけるしかない。 回答期限は、刻一刻と近づいている。 澪は、ダイニングテーブルの向かいにある仁の席を見つめた。 仁も自分も納得できる方法を、必ず見つけだしてみせる。 澪は唇を引き結んで立ちあがり、ひとりぶんの朝食の後片づけをした。 出勤すると、澪はさっそく調べものを始めた。 今は、さまざまな働き方がある時代だ。もしかしたら、澪と同じように利益相反に悩んだ人がいるかもしれない。 けれど、同じような例は、なかなか見つからなかった。 ――だったら、自分で考えるしかない。 澪はまず、どんな状態が利益相反にあたるのかを、ひとつひとつ確かめていった。 婚約者の会社に有利な条件で契約を結び、自社に損害を与えること。 自社の機密情報を、相手の会社に漏らすこと。 契約金額や条件を不当に調整したり、相手を特別扱いしたりすること。 どれも、気づかないうちにやってしまいそうなことばかりだった。 一緒に暮らしていれば、つい家で会社の愚痴をこぼすこともある。その何気ない一言に、機密情報がまじっていたら――。 それに、どんなに公正な契約を結んでも、「婚約者の会社だから、そういう条件になったんだよね」と言われてしまいそうで、こわい。 ――やっぱり、グロウセオリーを離れるしかないの?
出勤の時間が迫ったころ、ようやく書斎のドアが開いた。「……おはよう」 仁の声は、いつもより格段に低かった。目の下にはくまが浮かび、顔には疲れがにじんでいる。 書斎にはベッドがない。机に突っ伏して寝ていたのだろう。ほおには、寝あとがくっきりとついていた。 ――ちゃんと、休めてないんじゃないの? 心配が、胸をよぎった。けれど、口から出てきたのは、自分でも驚くほど低い声だった。「おはよう」 向かい合って食卓についても、ふたりともひと言も話さなかった。 澪がちらりと仁を見ると、仁はすっと目をそらした。目すら、合わない。 トーストをかじる音と、壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえる。 ――あたりまえ、だよね。 仁は、澪のことを思って、あの提案をしてくれたのだ。それなのに、その気持ちを無下にするような言い方をしてしまった。 ――今のうちに、謝ろう。 澪は、膝の上でぎゅっと手を握った。「仁、あの――」 そのとき、仁が椅子から立ちあがった。 食べ終えた皿を手に、仁はキッチンへ向かった。蛇口から水の流れる音がして、食器がカチャカチャと鳴った。 その音だけが、やけに大きく耳に響く。 澪は、続きの言葉を飲みこむしかなかった。 水の音が止まった。仁はコーヒーのポットを手に戻ってくると、空になっていた澪のマグカップに、黙ってコーヒーを注いだ。 ミルクは、ほんの少しだけ。澪の好きな量だった。「会社に行ってくる」 仁はそれだけ言うと、澪に背を向けた。 玄関のドアが閉まる音がしても、澪はその場から動けなかった。 両手で包んだマグカップが、じんわりと温かい。 ――なんで、こんなときまでやさしいの。 立ちのぼる湯気の向こうで、視界が少しだけにじんだ。* マンション
仁は、ただまっすぐに澪の顔を見ていた。 冗談を言うときの、口の端だけで笑う顔ではない。その表情は、真剣そのものだった。「この前の人事からの話って、今後の身の振り方のことだったんじゃないのか?」 まさか仁の口から、その言葉が出るとは思ってもみなかった。澪の背筋が、スッと冷えた。「……どうして、そんなこと言うの?」 澪はテーブルの上で手を組んで、親指をもじもじと動かした。仁の目を、まともに見ていられない。 それから、ふきんを手に取り、テーブルに飛び散ったスープをゆっくりと拭った。とっくにきれいになっているのに、手を止められなかった。「どうしてって、最近、澪の様子がおかしかっただろ? 帰ってきても上の空だし、夜もあんまり眠れてないみたいだったから」 仁は、テーブルの上で指を組んだ。「婚約したタイミングで人事から呼ばれたなら、たぶん、利益相反を指摘されたんじゃないかと思ってな」 ――全部、わかってたんだ。 仁は、なんでもお見通しだった。ほんとうなら、澪はほっとしてもいいはずだった。 それなのに、その事実に、澪の心はなぜかひりついた。「そう……なんだけどさ」 歯切れの悪い言葉しか、返せなかった。けれど仁は、そんな澪にはお構いなしに続けた。「澪には、うちの新商品開発の責任者になってもらいたい。手作りコスメの知識を、存分に活かしてほしいんだ」 澪は、うつむいたまま仁の言葉を聞いていた。「給料に責任者手当をつけるし、経営会議にも参加してもらう。これからは、俺と真壁さん、そして澪の三人で、会社を回していきたいと思ってる」 つまり、経営陣として名を連ねるということだろうか。 澪は、ゆっくりと顔を上げた。 仁の目は、どこまでもまっすぐだった。思いつきで言っているのではないことは、すぐにわかった。きっと、ずっと前から考えていたのだろう。 仁は、澪のことを本気で評価してくれている。コラボの仕事でいっしょに走り、澪の実力をすぐそばで見てきたからこそ、この提
会社から示された選択肢は三つで、回答期限は二週間後だった。 デスクのモニターが暗転して、黒い画面に自分の顔が映りこむ。目に光がなく、どんよりとしている。手入れは一日も欠かしていないのに、肌の色つやまでくすんで見えた。 いちばん手っ取り早くて安心なのは、グロウセオリーを退職し、ダーマコードに移ることだろう。仁はきっと、快く迎え入れてくれる。 もしかしたら、グロウセオリーとの窓口を任せてもらえるかもしれない。この会社のことを知りつくしている澪にとっては、仕事もしやすいはずだ。 ふたつめは、コラボの担当を外れてグロウセオリーに残る道だ。その選択肢が用意されているのは、これまでの仕事を評価してもらえているからだろう。ダーマコードとの仕事に関われなくなるだけで、この会社で働きつづけることはできる。 ――でも、それでいいの? 自分で手がけてきた仕事を手放してまで、ここに残る意味はあるのだろうか。 そして、三つめは、会社を辞めるのでも、ただ残るのでもない道を自分で探し、提案することだ。 そんなものがほんとうにあるのか、澪にはさっぱりわからなかった。「もう……どうしたらいいの」 澪は、両手で頭を抱えた。 考えても考えても、答えは出なかった。 とうとう澪は、昼休みに会社の外へ出て、実家の母に電話をかけた。「お母さん? ちょっと、相談があるんだけど……」『どうしたのよ、珍しいわね。なに? 言ってごらん』 澪は、仁との婚約によって利益相反の問題が生じたことと、会社から三つの道を示されたことを、かいつまんで話した。 すると母は、電話の向こうで、あっけらかんと笑った。『なんだ、簡単じゃない。そんなに真剣に考えなくたって、今の会社を辞めて、仁くんの会社に移ればいいでしょ?』「そう……なんだけど」 たしかに、そうだ。会社を辞めて、仁の会社に移る。それがいちばん楽だ。







